距離の測り方(電車の場合)

作家(村松珠季)が週5日出勤時と退勤時に利用する電車の車内にて、作品を実施します。基本的に毎週月曜日から金曜日までの平日に、同じ時刻に発車する電車の同じ号車に乗ります。
作家は「降りるまでに眼鏡を一度拭いてください」、「車内の端から端まで歩いてください」、「私の前に立ってください」といった車内で日常的に行われているような行動をとるよう指示する文言が書かれた服を着用して、乗車します。乗車後は、いつもと同じように過ごします。目的地に着いたら下車してその服を脱ぎます。

Site

作家が通勤時および退勤時に乗車している都内の電車|その際に着ている服

Generator/Organizer

村松珠季、参加者

Date

2023年7月24日(月)より、基本的に以下の日時で実施
曜日:月、火、水、木、金
時間:午前、午後

「場所の発掘_Some Practices」会期終了後も同様の日時で不定期に実施予定

Access

参加方法:作品が実施されている電車に乗り合わせ、指示に従うまたは従わない、あるいは傍観する。
(場所と日時の詳細は非公開)

Document

実施した内容
2023年7月24日(月)午前 「一駅前で降りてください。」
2023年7月24日(月)午後 「一駅前で降りてください。」
2023年7月25日(火)午前 「水またはお茶を飲んでください。」
2023年7月25日(火)午後 「水またはお茶を飲んでください。」
2023年7月26日(水)午前 実施なし
2023年7月26日(水)午後 実施なし
2023年7月27日(木)午前 「DOA NO MAE NI TATTE KUDASAI」
2023年7月27日(木)午後 「DOA NO MAE NI TATTE KUDASAI」
2023年7月28日(金)午前 「一駅前で降りてください。」
2023年7月28日(金)午後 「私の前に立ってください。」

1. 美術館ではなく電車であること
通常、美術作品は美術館やギャラリーに展示されており、美術作品を鑑賞する場合はそういった施設へ鑑賞者自ら足を運ぶというケースが一般的だ。この場合、人々は自身の意志で作品を見るか見ないかを選択できる。一方、電車は、本来移動するための乗り物であり、美術作品を見る場所として想定されていない。その上、走行中の車内は密室となり、その場から立ち去ることも容易ではない。そのため、車内でゲリラ的に作品が実施された場合、乗り合わせた人々が作品を見るか見ないか選択することは難しい。特に今回の作品は、その場に居る全員が、本人の意志とは無関係に、作品に巻き込まれる可能性がある。それはどういうことか。まず、服に書かれた指示に気が付いた人は、作品によって何らかの反応を誘発されることになる。例えば、指示の内容を理解しようとする、指示に従う・従わないという選択をする、傍観する、指示は他の人に向けられたものだと解釈し周囲の人の行動に目を配る、などの反応が想定される。あるいは、自分の身振りに自覚的になる、指示に関係していると思われたくなくて行動を変える(「水またはお茶を飲んでください」という指示が出ているときに水を飲めなくなる、など)といったこともあるだろう。また、その他の人も、指示に気が付いた人から見られたり、指示に従っている・従っていない・傍観していると思われたり、指示が書かれた服を着ている人の共謀者だと疑われるなどして、間接的に影響を受けるかもしれない。普段から電車内で人の行動や様子を意識的・無意識的に目にすることがあるが、そういった公共空間に存在する、人を見る/人に見られるという視線の交わりが顕在化するのである。
一方で、本作は、指示が書かれた服を着ている人にとっても危うさを伴う作品である。例えば、駅員に通報されたり、知らない人に話しかけられたりするといったリスクがある。さらには、パフォーマンスや他者への働きかけを公共空間で行うことへの、日本に顕著な抑圧を受ける(睨まれる、ヒソヒソ言われる、盗撮される、など)可能性も考えられる。今回の作品は、電車という公共圏を流用して、そういった危険性や緊張感も含め、コミュニケーションを試みるものである。服に書かれた指示が丁寧語であるのも、このような事情を踏まえている。

2. 主体がいないこと
この作品では、指示が看板や紙などではなく、服に書かれている。仮に指示が書かれた看板を持っている人がいた場合、指示を出している主体は明確であるように思える。つまり本人の意志がなければ物は持ち続けられないのだから、持つという行為には主体性があり、その人物がその指示を発しているように見える、あるいはその指示を推奨する立場にあるように見える。一方で、服に指示が書かれている場合、指示を出している主体はもう少し曖昧に感じられる。なぜならば、服は手に持つものと違い、意志がなくとも着続けられるからである。服を着る瞬間には主体性が発生するものの、その後は本人の意志がなくとも服を着た状態が続く(また日本では、外で服を着ることは当然のことで、そこに特別な意志は必要とされない)。それゆえ、着ている人の無意識の間にも、その服からメッセージは発信され続ける。主体が不在のまま、服に書かれた文言は指示として機能し続ける。
主体性が曖昧に感じられるもう一つの理由は、人がどのような意図で着ている服を選んだのか他人からは分からない、ということだ。例えば、服を選ぶ際、「この服が着たい」という積極的な理由で選ぶこともあれば、「そこにあったから」「選ぶのが面倒臭い」「洗濯済みのものがこれしかなかった」といった消極的な理由で選ぶこともある。さらには、積極的な理由で着ているとしても、その理由が外向的であることもあれば、内向的であることもある。例えば、デモに着ていく服を選ぶ際には周囲に伝えたいメッセージを込めることを重視するだろうし、着心地の良さで服を選ぶ際には自分の身体感覚に意識を向けるだろう。同様に、指示が書かれた服を着ている人は、指示を発する意志があってその服を着ているのかもしれないし、深く考えずに、あるいは書かれた内容をよく理解せずに着ているかもしれない。そういった人それぞれの基準や趣味嗜好がある中で、どのような意図でその服を着ているのか、周囲の人が確信を持つのは難しいだろう。また、特に今作では、着ていた服がシンプルな形のTシャツであったことや素朴な絵柄であったこと、併せて履いていたズボンが仕事用のありふれたものであったこと、したがって全体のコーディネートも凡庸なものであったことが、意志を持ってその服を着ているのかどうかをさらに分かりにくくさせていたと推測される。

3. 誰も状況を把握できないこと
例えば、電車内で流れるアナウンスの「吊革につかまってください」「通話はお控えください」といった指示は、明らかにその場にいる乗客に向けられたものであると分かる。一方、今回の作品で用いられている指示は対象者が明瞭でない。指示を見た人にとって、それが自身に向けられたものなのか、他の誰かに向けられたものなのか、あるいはその指示を受け取る役割の者がいるのか、判断が難しい。また、従った場合・従わなかった場合に起こりうる結果も分かりやすく予測されるものになっていない。例えば、「水またはお茶を飲んでください」という指示を目にした人にとって、自分が水を飲めばよいのか、自分以外の誰かが水を飲むよう推奨されているのか、飲むことによって何が起きるのかなど、その指示が何を意味しているのか理解するのは難しいだろう。(また、指示が「…しろ」ではなく「…してください」と丁寧語で書かれていることも、指示の曖昧さに寄与しているかもしれない。というのも、「…しろ」という表現は暴力性を感じさせるが、「…してください」という表現には、「指示」だけでなく「依頼」や「誘い文句」のようなニュアンスもあるように思えるからである。)さらには、誰かが実際に水を飲んでいたとしても、車内で日常的に見かける行為であるために、それが指示に従ったものなのか、指示とは関係なく行われたものなのか見分けることも難しい。特に「一駅前で降りてください」といった指示の場合、降車した人々のうち、誰が指示に従って降りたのか分からない。さらに、降車した場所が本当にどこかの一駅前なのか(例えば、降りる予定だった駅の一駅前なのか、終点の一駅前なのか、など)は、指示が書いてある服を着ている人にも判断がつかない。反対に、降車した人全員を指示に従ったものと見做すこともできるわけである。また上述のことから、指示が書かれた服を着ている人の単独行動か、他の人も関与しているのか、何かしらのドッキリ的なものなのかも分からない。
このように、指示が書かれた服を着ているという行為の意味や目的が不明瞭であるにもかかわらず、明らかな異物として認識されずに、電車内に紛れ込んでいるのはなぜか。それは以下のように、指示が書かれた服やその服を着ていることが作品の一部であると人々に判断させる材料が欠如しているからであろう。

A. 見た目
今回の作品は、いかにも美術作品といった外見をしていない。服に書かれた文字は、目立たないようなデザインで描かれており、可読性も極めて高いというわけではない。さらには、指示が書かれた服を着ている人は音楽を聴いたり、ぼんやりしたり、スマートフォンを触ったりするなど日常的な振る舞いをしており、人の目に明らかに異常に映るような行動をしていない。それゆえ、周囲の人々は、作品であること以前に、服に違和感を感じるような文言が書かれていることにも気付きにくい。

B. 文脈的な情報
一般的に、作品は、美術館やギャラリーにあること、壁や台座に設置されていること、キャプションがついていることなどによって美術作品であると認識される。また多くの場合、触ってはいけないものとして扱われている。対して、今回の作品は電車の中で実施されている上に、指示が書かれた服も普通の服と同じように着られている。さらに、作品についての情報は、General Museumのウェブサイトなどの限られたメディアにしか掲載されていないために、電車内で居合わせたほとんどの人はその情報に触れることがないだろう。その上、ウェブサイトには具体的な実施場所等が明示されていないために、どこかでそれらしいものを見かけたとしても、それが作品であると確信を持つことが難しい。また、指示が書かれた服を着ている人が作家であると、その電車内の人々に知られていないことも、今回においては文脈的な情報の欠如に寄与していると言える。

C. 無関心さ
そもそも電車内の多くの人はスマートフォンを触るなどして自身の手元ばかりを見ているため、周囲の状況が目に入っていない。また、仮に目に入り異変を感じたとしても、明らかに不審なものでなければ、声を掛ける、駅員に伝える、車両を変えるといった行動を実際に起こす人は少ないだろう。今作においても、服に謎めいた文言が書かれているだけでは、せいぜい作家の目の前にいた人が怪訝そうな顔をする程度だった。

本作は、1、2、3節で書いてきたような作品を取り巻く環境を反映して作られている。つまり、電車内という場所の特異性や、作家の外見といった要素を考慮して、作品内で用いられる指示が決められている。例えば、「私の前に立ってください」という指示は、危ういニュアンスを含んだ文言である。しかし、作品が日本の通勤電車で行われることや、作家が無害そうな見た目であること、指示が書かれているのが主体性を曖昧にさせる服であるといったことから、この文言を本作で使用する判断をした。仮に、この作品を実施するのが他の施設や他の国、他の時間帯だった場合、あるいは例えば服を着る人の容姿が危機意識を持たせるようなものだった場合、周囲の人々も今とは異なる反応をすると予想される。そのため、この作品は、特に指示の出し方、指示の内容、作家の振る舞いといった点において、別の形で展開されることになるだろう。

4. この作品を作った動機
通勤・退勤の電車を舞台に作品を作ったのは、作家が現在、週5日同じ電車に乗り仕事に行くという生活をしているからである。作家と似たような生活をしている、つまり、毎日同じ時間に同じ電車に乗って同じ方向に向かっている人々をグルーピングし、ターゲットにした。指示のような文言が書かれた服を着ている人が毎日のように乗車しているということは、同じく毎日のようにその電車に乗車している人でないと分からない。反復することで、違和感に確信を持つ人もいるかもしれない。逆に、一度だけの遭遇では、仮に違和感を持ったとしても、すぐに忘れ去ってしまうだろう。生活とともに作品も繰り返されることで、日常的な体験を少しだけずらすことができるのではないか。

5. 前作について
本作は、2020年12月19日土曜日に作家が大学の講評会において実施した作品を、作品を取り巻く状況の変化に基づいて改変しリバイバルしたものである。前作の内容は以下のようになっている。まず、状況としては、講評を行う教員と講評を受ける学生、聴講に来ている学生などが居合わせていた。その人々に対し、作家が一人一人に耳打ちで指示を出していった。指示の内容は、講評会の場で普段から見受けられるような振る舞いや、それを少し誇張した振る舞いを要求するものだった。また、事前の説明によって、それぞれに指示が出されるということと、その指示内容を誰にも明かしてはいけないということが伝えられていた。その結果、周りの人の行動が指示によるものなのか自発的なものなのか、互いに判断がつかない状態になった。また、「Aさんが話を遮られたら手を挙げてください」「手を挙げている人を見たら誰かに話を振ってください」と指示の内容に関係性を持たせ、講評会に居合わせた人々が知らず知らずのうちに互いの行動をコントロールするように仕向けた。さらに、通常の講評会とは異なる目的・役割を設定することで、講評会に別の視点を加え状況を変容させた。このことは、指示によって人々の発言や行動を作家の思うままにコントロールすることが可能であり、講評会をジャックできることを意味する。この作品の狙いの一つは、講評を受ける学生が大勢に囲まれ、一方的に見られる立場になるという講評会の典型的な様式に対して、見る/見られるといった立場をごちゃ混ぜにすることであった。
前作と今作では、作家が作品実施時に身を置いている環境を舞台に、指示を出すという方法によって、同じくその場の当事者である人々とのコミュニケーションを図っている。両作に共通している点としては、実施場所の特性とそこに集まる人々の属性を利用して作品を構成していること、その場にいる人が作品に強制的に巻き込まれること、従来見る側の人が見られる側にもなることなどがある。また、人の行動が指示によるものかどうか分からなくなることによって状況が撹乱されることや、反応や行動がコントロールされることも共通している。加えて、巻き込まれた人々がその場から離れることが難しいという点も同様だが、今作ではその要素がより強まっている。
相違点としては、まず、指示の出し方の違いが挙げられる。前作では、全員に見える場所で耳打ちすることによって、誰に指示が出されたか分かるようになっている。一方で、今作では、指示が服に書かれていることによって、指示を出された人が誰だか分からないようになっている。また、前作では指示を出された人以外がその指示の内容を知ることはできないが、今作では乗り合わせた人であれば誰でも指示の内容を見ることができる。したがって、指示の主体についても、前作では作家であるとはっきりしてるが、今作では曖昧になっている。それにより、(指示を出す側にもリスクが伴うことも相まって、)今作では指示を出す側の権威性が弱まっている。別の相違点としては、今作では文脈的情報や事前説明がないことも挙げられる。これによって、指示の存在に気付かない限り、異変に巻き込まれているという自覚を持ちにくくなっている。加えて、電車には互いを認知しない不特定多数の、様々な背景をもつ人々が乗り合わせているのに対して、講評会には互いを認知している、美術の知識がある人々が集まっている、という点も異なる。それにより、出された指示を周囲の人がどのくらい実行するか(作品に協力的か、積極的に参加するか)、実行されたときにどのくらい違和感を感じるか(知り合いなら行動に不自然な点があるか分かりやすいかもしれない)ということも変わってくるだろう。

6. 今後の展望
今後、指示が書かれた服を売るなどして、作家以外の人も指示が書かれた服を着られるようにするつもりだ。そうすることによって、ますます本当の意味での指示を発している人が誰なのか分からなくなる(服を売った作家か? それを買って着ている人か?)のではないかと考えている。作家の手元を離れた指示が、曖昧さを増して、どこかの人と人の間を浮遊する。