Practices

こちらです

Here You Are

どのような場所であれ、ある特定のどこかに辿り着くためには、あなたはまず何よりもあなた自身に対してここを指定しなければなりません。
道に迷ったら「ここはどこなのか?」ではなく「どこがここなのか?」と問うべきです。すなわち、何がここをここたらしめているのかを問うべきです。
「われあるがゆえにここあり。たとえどこにいようと、どこにいるのかわからなかろうと、わたしが現にいるところがここである、そのことに迷えるはずがない。もしも永久にどこにも辿り着けなくとも、対置しうる「そこ」が指定されなくとも、このわたしがいさえすれば、つねに必ずその場所はここであり、わたしは存在するのだから、ここは明晰判明にここなのだ」。そうあなたは考えるかもしれません。しかし本当でしょうか?
ここに先行して「わたしがある」となぜ言えるのでしょうか。ここに降り立つ前から、あらかじめ独立してわたしが存在するのでしょうか。「われあるがゆえにここあり」の逆の「ここあるがゆえにわれあり」とは言えないとしたら、それはなぜでしょうか?

そうこう考えているうちに、何も持たずどこにもいけないあなたが、地図案内板らしきものをみつけました。
「これでやっとわたしは、どこかへと着地することができる!」と喜んだのもつかのま。何たることか。その地図案内板はすっかり磨耗し色褪せて、「現在地 You Are Here」と書かれた文字しか残っていません。中心に残ったその文字以外、四角い枠に囲い込まれた案内板の画面上には、漠とした漂白の拡がりがあるばかり。
何もかもが漂白しつつあるのに何食わぬ顔でありつづける現在、それは地でしょうかそれとも図なのでしょうか? このたんなる「現在地 You Are Here」は、空間のなかにあなたを位置づけることにも、空間のなかであなたを方向づけることにも作用していません。
ホワイトアウトは抜けられる奥であろうがぶつかれる面であろうが、どちらがどちらなのか区別がつかないがゆえにホワイトアウトなのです。

そもそもあらゆる地図案内板は、現在を二重化して指し示すことで成り立っています。それは、地図内に記されたある一地点と、地図案内板それ自体が立っている一地点というふたつの地点を、現在というひとつの時点において貫いています。
あなたがそれを目にする刹那、「現在地 You Are Here」は、矢が刺さった標的のように同心円状をなして(あるいは波紋をなして)地図平面上での「現に」を指し示し、また同時にそこを貫通して、案内板の全体によって、地図上に示されたその「現在地 You Are Here」がまさにこの地であると、地面をじかに突き刺すことで指定します。
地図案内板は図内部でのいまここを固定し、当の図そのものがある場所としてもいまここを固定し、それらふたつの固定性を一挙に串刺しにすることによって成立しているのです。

しかしながら、あなたのみつけた「現在地 You Are Here」とだけ記されたその地図案内板は、もはや串刺しにできてはいません。目にしたあなた自身がそうであるのと、ちょうど同じように。
いわば「現在図」へと裏返ったかのごとく、「こちらです Here You Are」と案内されて「Here」が「You Are」に届かないままにここだけしかなさ)が浮かび上がっています。
あなたが陥っている、ひと摑みでなら「迷う」と名指されるこの状況も、ひとつの場所だと捉えられはしないでしょうか。
迷子や迷走は「地に足が着いていない」がゆえに特殊なここを開くことがあるのですが、しかしそうしたここは、何ものも(このわたしすらも!)十全に身を占めることができない場所であり、空いていることをどの道確かめようのない空き地であり、だから当然それ自体としても地図上のどこにも占めることがないような場所なのです。

(※上記のテキストを台本として、「場所の発掘_Some Practices」のイベントいずれかの目的地へ向かう過程で、上演することもできます。)

Site

道に迷っている (とりわけ「知らないところにきた」感が覆ってくる序盤の) 最中

Generator/Organizer

Generator:あなた
Organizer:高嶋晋一

Date

いつまでも

Access

未公開

Porject
Porject
Excavation of Site_Some Practices

場所の発掘_Some Practices

A new form of Platform_Thinking through art and technology
2023.6.30–7.31